2009年03月04日
時の人たち
[ 日々の記録2009 ]
大学院在学中の1969年、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。
つーことは、いきなり先生か! 会社に入って働いたことがないってことね! 彼のお金の稼ぎ方っていうか、流れってまぁ“そういうこと”なのね? そういう人に、国民の気持ちってわかるのかしら。麻生さんだって一応会社にお勤めだったことあるんだけど。って、いきなりトップだからあまり意味ないか。どこかの答弁でインスタントラーメンについて「今は400円くらいですか?」って答えてた気がするし。
海外での事業
帰国後の1966年に実家の麻生産業(後に清算)に入社し、1960年代後半にブラジルサンパウロ市に1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。[9]
その後、1970年から2年間に渡って西アフリカのシエラレオネにて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していた事が知られている。[10] [11]
帰国後の経歴
1973年にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現:株式会社麻生)の代表取締役社長に就任。炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代にまた、社長業の傍らで、1976年のモントリオールオリンピックにクレー射撃の日本代表選手として出場(結果は41位)している。
うーん(謎) 庶民生活を知らない人ほど首相の座に近いようなイメージがあります。
投稿者 suzumari : 2009年03月04日 12:27
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